埼急の歴史(2)
1960年代後半からは吉見線沿線でも住宅開発が進展し、人口が増加しました。1975年には新狭山〜東所沢間が開業し、
国鉄武蔵野線とも連絡するようになりましたが、この区間の建設で大量の負債を抱えたため経営的には苦しくなり、
車両の増備及び置き換えも、専ら国鉄からの中古車購入でまかなっていました。
以後路線の延長は行わず、沿線人口の増加に伴う輸送力の増強と有利子負債の圧縮に力を入れました。
その後も、吉見線ではつり掛け車の取替え、モータリゼーションの進展で収支が悪化した松山線ではワンマン運転の開始など、
近代化・合理化などの施策は行われていました。
1990年代初頭になると、熊谷と太田の間に鉄道を建設しようという機運が高まり、1992年に埼急と埼玉県、群馬県、
その他沿線の地方公共団体などの出資で「埼玉群馬連絡鉄道株式会社」が設立され、、1995年に熊谷〜太田間を着工しました。
この区間は埼急が第2種鉄道事業者として運営することになりました。
そして1998年に、吉見線の延伸という形で開業し、久方ぶりの新車、5000系も登場しました。
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